2015年2月1日日曜日

18切符で岐阜へ行くぶらり旅

 前々から気になっていた岐阜へと行くことができました。今回も青春18切符を利用しての日帰り旅行です。

今まで関ヶ原へ行ったことがあるぐらいで、そこより先は道の地でした。電車ダイヤをよく眺めると充分に生き返るできる距離であることがわかりました。

そこで下調べもそこそこに電車に飛び乗って出かけることにしました。

駅を降り、いきなり待ち構えてくれたのは黄金の像でした。

マント姿の織田信長公でした。

 信長公の像と言えば滋賀県の安土にも駅前にあるのですが、同じ人物でもこうも違うものかと思うのですが、とりあえず岐阜の信長像は金色のため光り輝いていました。

 普通銅像とかの類いは、地上から見てちょっと見上げるぐらいですが、この像はかなり高いところに位置しています。

 駅前は広場的なところとバスターミナルになっていて、よくあるツートンカラーのバスではなく、派手目の色彩のラッピングカーが走っていました。

何の絵かと思うと織田信長の絵でした。

 写真にあるような甲冑に身を包んだものがほとんどですが、ポーズや持ち物が違うものが何種類かあって思わず見入ってしまいます。

 今回の目的の一つとして、岐阜城に行くというものでした。

 先日読んだ本の中に最も落城した城というコラムがあって、都合6回(5回だったかな)落城した城は本城ぐらいと書かれていて、俄然興味を持ったからでした。

 織田信長と言えば元々は尾張の出身でそこから領土を拡張し、美濃までも呑み込む大名となりました。

 それ以前は斉藤道三の子孫、斉藤義龍やその子龍興が継いでいましたが、織田信長の侵攻と内部分裂でついには織田信長に敗れました。

 その本拠地がこの岐阜城でした。金華山という山の上にあるのですが、なんか場所が高すぎひんかなあというのが正直な感想。

 山上の本丸天守へ行く前に、ちょっと周りを見渡すと、織田信長が住んでいたと言われる場所が発掘されて保存されていました。

 この城は本丸まで当然登れるのですが、ロープウェーも完備されていて、ちょうどこの横を通り過ぎていきますが、上から見ると結構な広さです。

 今回、自力で登っても良かったのですが、他にも寄りたいところがあったので今回は断念しました。

 ロープウェーの駅から降りるとちょうど二の丸などの郭の一つに降り立ち、本丸へ向かって歩きますが、あまり平坦部の場所が少なく郭や備えがえらく小さく感じます。

 平坦部が少ないので兵力が置きにくく落城しやすい理由だろうと書かれていたことを噛みしめました。いい天気だったので天守は輝いていました。

 どの城も天守がある城は大抵登らないので本城もスルー。

 本丸あたりの木立からは岐阜の町並みが手に取るようにわかります。長良川が雄大に流れています。このパノラマは中々いいです。

時期によっては夜景が見られるそうです。

 岐阜城の周りには岐阜公園と言って結構いろんな施設などがあったりして時間があれば寄れたのですが、今回は断念しました。

 しかし一人の銅像を見て足を止めました。

板垣退助です。

 

 今となっては100円札の絵の人と行ってもさっぱり通じませんが、幕末・維新の時代に土佐藩の代表格として維新の原動力となった人でした。

そんな人がなんで?ですがよく考えたら思い出しました。

 維新後は政府の要人として要職を歴任しましたが、征韓論の件で西郷隆盛などとともに下野しました。

 藩閥政治に抗した自由民権運動が盛んとなりその中心人物の一人でしたが、議会が開設されることとなったために彼は自由党の党首となりました。

遊説先のこの地で暴漢に襲われ重傷を負い、有名な「板垣死すとも自由は死せじ」の言葉を残しました。

 もっともこの言葉は当の本人が言った言葉ではなく、後世の作で「吾死するとも自由は死せん」と言ったそうです。

 それがこの地でした。1560年代、1880年代、2010年代と頭の中で行き来し非常に満足を覚えながらこの地を後にしました。

 後から考えたら元々斉藤氏の領国だったのでその辺の歴史的なことをもっと深掘りすべきだったとか、大仏がすぐそこにあったのにとか、長良川見てないやんとか色々ありますが、同じ所に二度三度行くのが僕流なので、また次回にとっておきたいと思います。

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